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![]() 播州歌舞伎は、元禄(1688〜1704)年間に、加西市北条で起こった高室歌舞伎(芝居)の流れをくむ「農村歌舞伎」です。高室の座は昭和12年頃にすべてなくなりましたが、兵庫県多可郡多可町中区に本拠を置く嵐獅山一座がその伝統を今も受け継いでいます。 平成16年1月に中央公民館播州歌舞伎クラブが「全国ふるさと歌舞伎フェスティバル」に招かれるなど、最近は若い人の活動が目立つようになりました。 ![]() このホームページから、いつでもネットで見ることができます。公演については、随時ご案内いたしますので、どうかご覧いただきたく思います。 なお、公演等のご要望があれば、次の所へご相談ください。
![]() 近年、多可町で演じられたのは、小学生や中央公民館の舞台も含め、寿式三番叟、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵、傾城阿波の鳴門、蝶千鳥曽我対面、絵本太功記、玉藻の前、御所桜、一ノ谷嫩(ふたば)軍記などです。 かつて100以上の外題を持っていた播州歌舞伎も、近頃は役者が減り、できる外題も限られてきました。けれども「壺坂霊験記・お里沢一」のような、少人数でも出来る名作もありますので、今後ともご期待ください。 |
![]() 大歳神社の狛犬(東高室) |
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現在、伝統芸能として伝えられている地方歌舞伎の保存・運営形態をみると、 @関係者や有志による保存会による Aまつり等を開催する自治組織による B地方公共団体の運営による C宗教法人等による・・・のほぼ4形態に分けられます。 けれども、播州歌舞伎はそのいずれでもなく、300年間全国の農村を巡り、大衆に 支持されてきた農村歌舞伎の伝統を「プロの座」が今に伝えているところに最大の意義 があります。このため、一座の地元にあって、プロの指導を受けて育っている多可町の歌舞伎はちょっと凄いですよ。・・・是非一度、ご覧ください。 |
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![]() 長年、地方を巡業し、大衆とともに生きる中で客の要求を柔軟に取り入れ、所作や科 白(セリフ)、化粧等のすべてにわたり徹底的に客受けをねらった演技を追求してきま した。「面白くなければ、明日は呼んでもらえない」という厳しさの中で創り上げてき た芝居、すなわち @大げさな所作(身振り、手振り、六歩など) A方言やなまりを取り入れた科白まわし B身近にあるものを使っての演出など・・・は播州歌舞伎ならではのもので、 時代を超えた面白さが随所に感じられます。 |
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![]() 播州歌舞伎の開演は、たいてい仕事を終えた人々が集まってくる夜でした。収穫が終わった田んぼに組み立てられた仮設小屋の舞台は照明が十分ではなく、時には発電ランプのついた自転車を借り集めてきて、村の若い衆が一生懸命こぐ明かりのなかで演じたこともありました。 このため、客席からよく見えるように化粧を厚くし、派手な所作で、小屋の隅々まで聞こえるように大きな声で演じました。 また、一回や二回切られたくらいでは死なず、何度も何度も起きあがり、お客さんから「よし、ようやった、もうそれくらいでええ」という拍手がもらえるまで、髪を振り乱し必死に立ち向かっていったのです。 一つの外題を最初から最後の段まで「通し」で行ったのも播州歌舞伎の特徴で、白々と夜が明けはじめ「草刈りの時間」になるまで一晩中続けられました。見る方も、する方も今日では考えられない程のエネルギーと根気があったのです。 そんな芝居ですから、播州歌舞伎はよく「泥くさい」と言われます。けれども、その雰囲気こそが庶民の世界そのもので、ドサ回りの中で培ってきた「ひたむきさ」は、今も大衆演劇の中に生き続けています。 |
![]() 左から、先代獅山、現獅山、中村和歌若 |
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高室で滅びた農村歌舞伎が多可町に生き残っているのは、嵐獅山・中村和歌若両氏の祖父にあたる松本源吉さん(明治5年生)のお陰です。もし、この人の存在がなければ、播州歌舞伎はとっくの昔に過去のものになっていたことでしょう。 多可町中区安坂に居を構えていた源吉さんは芝居が何よりも好きで、昭和10年に獅山・和歌若両師匠の父・徳治さんを松本家の養子に迎え入れます。このことが元禄時代に源を発する農村歌舞伎が多可町中区に根を下ろすきっかけになりました。 徳治さんは「何よりも先ず、客と役者を大事にすべし」という岳父の信条を受け継ぎました。このため、中区安坂の「松の家」へ続々と各地から座頭クラスの役者が集まり、後に播州歌舞伎集団ができる素地が作られていきました。 源吉さんは座長として苦労していた徳治さんをいつも励まし、精一杯の支援を行いました。けれども、自分自身は酒やたばこを一切口にせず、生涯を芝居一筋に打ち込んだ大きな人でした。 昭和12年(1937)、永眠。奇しくもこの年に、高室芝居は消滅したと言われています。享年65歳の年の暮れのことでした。 |
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![]() 嵐獅山座の創立者は、二代目嵐獅山(本名・松本徳治)さんです。 徳治さんは、明治30年(1897)に佐用で生まれ、幼い頃から父のつくった「ちんこ(子ども)芝居」で役者の道を歩み始め、16歳のとき、京都の歌舞伎俳優・山城家 嵐獅山(初代)の目にとまり、当時大阪の松島にあった八千代座に入ります。 このとき初めて「中村和賀若」という役者名をもらいますが、この名は一部字を変え、現在「中村和歌若」氏が受け継いでいます。 徳治さんは主に大阪や京都の芝居座を回りながら腕を磨き、昭和2年、師匠に認められて「山城家 嵐獅山」を襲名しました。 昭和7年(1932)に自分の座を立ち上げ、師匠のもとを離れます。そして地方を回っているうちに源吉さんに出会い、源吉さんの死後、長女の鶴江(つるゑ)さんと結婚して名実共に「松の家」の主になったのでした。 伴侶となった鶴江さんは、幼いときから三味線や浄瑠璃を習い、十歳のころにはもう堂々と三味線を弾いていました。彼女は「鶴沢つるゑ太夫」として舞台を引き締めただけでなく、傷んだ舞台衣装の繕いから座員たちの世話まで一切を取りしきり、座の活動を支えました。 多可町中区に活動拠点を定めた徳治さんは、昭和48年に播州歌舞伎を率いて初めて東京に上り、国立劇場で公演を行います。このころが播州歌舞の最後のピークでしたが、昭和59年(1984)に88歳で惜しくも他界。 翌60年(1985)、播州歌舞伎の最大の支援者だった三味線、浄瑠璃の名手『つうちゃん』こと鶴江さんも、夫の後を追うように80歳で亡くなりました。 そして今、播州歌舞伎「嵐獅山座」は三代目嵐獅山・二代目中村和歌若両氏の時代になっています。 |
![]() 先代嵐獅山 (松本徳治氏) |
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