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■新村・寿岳両博士が杉原谷へ調査
昭和15年(1940)8月2日、雲門寺にて。新村出・寿岳文章両博士が、杉原紙の原産地調査のため杉原谷村を訪問。前列左から、杉原谷村長 山口吉五郎氏、雲門寺住職 関卓道師、新村出博士。後列左から、寿岳文章博士、杉原谷小学校長 宮田正夫氏。
■杉原紙発祥の地 記念碑撰文
昭和41年(1966)、森野一司さんら杉原谷の有志の手で、杉原谷小学校の校庭に「杉原紙発祥の地」記念碑が建立されました。題字は新村出博士、撰文は寿岳文章博士の書。のちに、記念碑は町立杉原紙研究所へ移されました。撰文は藤田貞雄さんが今中喜重郎さんに譲り、今中さんが表具したものです。(寄贈・今中喜重郎さん)
■記念碑撰文に落款を押す寿岳先生
「杉原紙発祥の地」記念碑の撰文に落款を押す寿岳文章博士。右は井上正康・町立杉原紙研究所所長。平成3年(1991)5月、京都府向日市の「向日庵(こうじつあん)」(寿岳先生のご自宅)で。
■寿岳先生の最期の寄稿文
寿岳文章さんの最期の寄稿文「杉原紙復元の感動をいつまでも」。杉原紙を特集した加美町広報紙(1991年12月号)への寄稿文で、これが絶筆となりました。晩年の文章さんは白内障で文字を書くことができなかったため、長女の章子さんが病床から口述筆記しました。
■寿岳先生の色紙
亡くなる直前に寿岳先生が書かれた色紙。杉原谷への想いがこめられています。
寿岳文章は「書物」あるいは「本」について若いころから大いなる関心を持っていた。内容についてではなく、その形態についてである。美しく堅固で無駄のない、いわゆる「装幀」に関し一家言を有し、かつそれを実践した。最初に昭和4年(1929)『井ルヤム・ブレイク書誌』を刊行する。ついで1933年から私版を刊行した。最終は1947年の
『エマスン書誌』である。その間、世に『向日庵本』といわれる日本で最も美しい見事な本を作り続けた。どの本も全部、しっかりした和紙で作られている。
『紙漉村旅日記』
昭和12年(1937)から15年にわたって寿岳文章・しづが日本全国の紙漉き産地を調査した記録。夫婦でともに書きつづった旅日記で、フィールドワークの最初のものと目される。これには私版の向日庵本、明治書房刊、春秋社刊とさまざまの刊がある。
『絵本 どんきほうて』
世界的名作の「どんきほうて」を、日本の作品として作ってほしいとの米国人カール・ケラーの要求で、芹澤_介(けいすけ)が製作した本。向日庵本中、最も有名なすばらしい本である。
『井ルヤム・ブレイク書誌』
柳宗悦の見事な装幀。昭和4年(1929)に60円という価格の豪華本。
『ブレイクとホ井ットマン』
柳宗悦と共編で昭和6年(1931)から2年間、刊行された雑誌。全冊用紙は越前産別漉艶無し鳥の子。
『無染の歌』
ウィリアム・ブレイクのソングイノセンス −汚れを知らぬ歌− 寿岳文章訳詩原本の複製。彩色は寿岳しづ。装幀布地の型染は芹澤_介(けいすけ)。
EASTWARD 『東方へ』
エドマンド・ブランデン 1949年、及川全三抄紙。製本 鳴子佐一郎、デザイン 寿岳文章。ブランデンの書字の美しさは有名である。全冊印刷ではないブランデンの書体の見事さが、和紙によって一層浮き上がって見える。
EXOTERIC WRITINGS OF WILLIAM BLAKE
寿岳文章編 ウィリアム・ブレイクの比較的分かりやすい一般向けの詩を選んだもの。
BIBLIOGRAPHY OF EMERSON IN JAPAN エマスン書誌
寿岳文章は若い時からアメリカの偉大な哲人エマスンに強く心を惹かれていて、エマスンに関する日本での出版書の集約を試みた。昭和22年(1947)に至るまで、227点に及ぶエマスン関係の書物・論文がある。全部和紙で作られた特異な書誌である。
■紙すきの屏風
芹澤_介(けいすけ)作。寄贈:寿岳章子さん。
■全国の和紙
昭和12年(1937)から15年(1940)にわたって寿岳文章・しづ夫妻が全国の紙すき産地を調査した際に集められた和紙。
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