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加美町の北部、杉原谷で紙をすき始めたのは、7世紀の後半と推定されています。 杉原紙は奈良時代には「播磨紙(はりまがみ)」と呼ばれ、主に写経用紙や薄紙がすかれて
いました。この時代、全国には紙をすく国が20近くありましたが、播磨は、出雲、美作、美濃、越前、尾張などと並ぶ製紙の先進国として知られ、天平16年(744)には、1万枚、同18年には1万7千枚の注文が播磨国に出されたという記録も残っています。
また、昭和35、6年ごろに行われた、正倉院の紙の研究調査報告にも、播磨国司が天平18年に提出した「播磨国正税帳」に用いられている紙は、出雲などに比べると、はるかに技術が進んでいるという記述があり、播磨紙の優秀さを明らかにしています。
播磨紙が杉原紙と呼ばれるようになったのは、平安時代になってからのこと。関白藤原忠実が記した日記「殿暦」の永久4年(1116)7月11日のところに、この日行った先祖の法要の引出物として、娘の泰子と長男の内大臣忠通とに、それぞれ藤原家代々の家宝に添えて、「椙原庄紙(すぎはらしょうのかみ)」100帖を贈ったと書かれています。椙原庄紙の名が文書のなかに表れているのは、現在のところこれが最初ですが、この地が藤原氏の荘園とされたのは11世紀後半のことで、椙原庄紙の名はそのころに生まれていたと考えられています。
京都を中心とする近畿地方へだけ送られていた杉原紙が、東国へ進出したのは12世紀初めのこと。鎌倉時代の歴史のあらましを書いた「北条九代記」の承久元年(1219)のころに「杉原紙初めて流布す」との記述があり、この年初めて杉原紙が鎌倉幕府の公用紙となったことを知ることができます。 江戸時代半ばになると、杉原紙は庶民の家にもいきわたり、広く用いられるようになりました。 丈夫なことから、当時盛んに行われた書籍用の印刷用紙として、また浮世絵や錦絵の多色刷りの版画の用紙としても大いに用いられました。このように享保のころから約100年間が製紙業の最も盛んな時期で、杉原谷には300軒あまりの製紙業者があったということです。
隆盛を誇った杉原紙も、18世紀をピークに徐々に衰退の途をたどることになります。それは、 紙の需要が減ったからではなく、製紙の中心地が、経済の先進地から後進地へと移ったことによります。従来の製紙中心地は、製紙から他のもっと効率のよい産業に転換するのです。杉原谷でも造林業や炭焼き、凍りコンニャク製造などいろいろな産業がおこり、それに職を転じる人が増えたこと、原料の楮が少なくなり、他地方から買い込まなければならず、製紙業では収益を
あげることができなくなったこと、などが大きな原因でしょうか。
明治になっても、少し格式ばったことにはやはり杉原紙が使われていて、少ないながらも杉原紙の需要は絶えませんでした。主に山に生える楮が少なくなった杉原谷では、杉林の下に三椏(みつまた)を植え、それを用いての半紙の生産を主に、ときどき杉原紙をすくという状態が続いていました。 しかし、それでも明治年間、杉原谷には紙をすく家がまだ30数軒あったのです。
大正初年にも、杉原谷には三谷をはじめ、清水、箸荷、門村などに数軒の紙すき農家がありました。しかし若者は、年々増えていく他の職業に従事し、老人だけが細々と、遠い祖先から受け継いできた 杉原紙の伝統を守り続けていたのですが、それも1軒減り、2軒減り、とうとう大正14年、7世紀以来続いてきた、杉原谷での紙すきの永い歴史は、その幕を閉じたのでした。
西洋紙に圧倒され、その後数十年、杉原谷の紙すきは途絶えていましたが、これがよみがえることになるのです。 幻の紙「杉原紙」を再び世に出していただいたのは、寿岳文章(じゅがくぶんしょう)博士の和紙研究に始まります。寿岳博士は、昭和15年に新村出(しんむらいずる)博士とともに杉原谷村を訪ねられ、和紙の代名詞ともいえる杉原紙がこの地ですき出されたことを実証してくださったのです。このことによって、町内の郷土史研究家・藤田貞雄先生が深く感銘され、以降独自の研究をされました。 日本が高度経済成長を果たし、心の潤いや充実に目を向けだした昭和40年代になると、こうした輝かしい歴史と永い伝統を誇る杉原紙を復興させようという動きが起こり始めました。昭和41年には、杉原谷小学校の校庭に、「杉原紙発祥之地」記念碑が有志の人たちの手で建てられ、同45年 には藤田貞雄先生が、30年をかけて杉原紙を研究された集大成「杉原紙」を出版されました。また 同年、紙すき経験のあるお年寄りを中心に、紙すきの道具を集め、実に50年ぶりに杉原紙の紙すきを現代に再現することに成功したのです。 こうした動きを行政も全面的にバックアップ。昭和47年4月に町立杉原紙研究所を設立し、昔どおりの技法で本格的な紙すきを再開しました。その後さらに研究を重ねて立派な紙をすき続け、
昭和58年春には兵庫県の重要無形文化財に指定されるまでになりました。また、昭和60年夏、 神戸市で開催された「ユニバーシアード神戸大会」の表彰状にも使用され、日本を代表する紙としての輝かしい歴史をも再現させたのです。
藤田貞雄先生の和紙研究は30年にもおよぶ。この本はまさに半生を捧げた労作と呼ぶにふさわしい。先生をここまで燃えさせるきっかけとなったのは、まぎれもなく2氏との運命の出会いである。 こうして、研究図書『杉原紙ー播磨の紙の歴史』は昭和45年12月に生まれた。藤田氏、63歳。ちょうど30年の研究成果である。当時は、県下初の和紙研究書として注目を集め、全国各地の和紙研究家、愛好家からも高い評価を得た。 昭和47年、陽春の日ざしもやわらかな4月18日、町立杉原紙研究所の開所式が行われた。式典には、兵庫県の一谷副知事、寿岳博士、甲南大学教授の和田邦平氏、また和紙復元に大きな力を貸した京都府黒谷和紙の中村元氏ら約50人が参列。式は、厳粛に、かつ盛大にとり行われた。式典で一谷副知事は「ものを作る喜び、埋もれた文化を掘り起こし、伝える喜びを、現代人の心に呼び起こしてほしい」とあいさつ。企業化への成功を祈った。また寿岳博士は、西行法師の歌になぞらえて和紙復元の喜びを語った。「年たけて また相見む(また越ゆべし)と 思いきや 命なりけり 播磨杉原(さよの中山)」 研究所が設けられて10年、昭和57年に「杉原紙保存会(代表・森野義史町長)」を結成。調査の結果に基づいて、保存会が翌年に兵庫県指定重要無形文化財の保持団体に認定された。こんなことが弾みとなって、同60年夏、神戸市で開催されたユニバーシアード大会の表彰状にも使用され、日本を代表する紙としての輝かしい歴史をも再現。昔とたがわぬ技法ですかれる純粋のこうぞ紙は、最近では兵庫県伝統的工芸品に認定されるまでになった。 今日の杉原紙の姿に至るまでには、多くの人たちの努力とチームワークがあったことを忘れてはならない。京都府から半年間泊まり込みで紙すきの指導にあたってくださった黒谷和紙の福田ご夫妻、農協職員を退職し紙すき職人を志した井上青年、何も分からない紙すきの世界へ飛び込み、冷たい水を使った厳しい作業を始めた女性たち、研究所を陰から支えたこうぞを栽培している人たち、製品加工する人たち・・・。雨の日も雪の日も、厳しい手作業に耐えながら真の杉原紙を目指して頑張ってきた職員はもちろんだが、杉原紙はこうして多くの人たちに支えられて大きくなった。 平成6年3月、加美町とゆかりの深い寿岳章子先生を招き、加美ふるさと塾が第1回目のふるさと講座を開講。その後も和紙をテーマに講演会を開催し、和紙について町民たちが学んでいる。また、杉原紙のはがきを使った「杉原紙年賀状全国コンクール」や和紙原料のこうぞを町民で育てる「こうぞの一戸一株栽培運動」も始まり、杉原紙を大切にする気運は徐々に高まっている。
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